庭園・日本美学・作庭思想
重森三玲
日本庭園の過去を測り、その未来をつくった人
伝統を深く知るほど、ふつうは過去の重さを感じる。
重森三玲は、その知識を模倣ではなく創造へ向けた。
日本各地の古庭園を実測し、石組と構成を読み込みながら、日本庭園を過去に閉じ込めるのではなく、その未来をつくろうとした。
本文の流れ
私はこれまで、孫の重森千靑さんと何度か仕事をご一緒する機会があり、その経験をきっかけに、重森家の作庭思想をより深く考えるようになった。千靑さんの仕事を理解しようとすれば、やがて祖父の重森三玲に行き着く。
千年に及ぶ日本庭園史から、最も偉大な作庭家を五、六人挙げるなら、重森三玲は必ずそこに名を連ねる。
重森三玲の稀有さは、庭園史研究者と作庭家を兼ねていたことだけではない。研究と創作が、彼の中ではほとんど一つの営みとなっていたことにある。
彼が生涯を通して問い続けたのは、この伝統はどこから来たのか、なぜ現在の姿になったのか、そして今、なお何を生み出せるのかということだった。
日本画から庭園へ
重森三玲は1896年、岡山県に生まれた。若い頃からいけばなと茶の湯を学び、のちに日本美術学校で日本画を修めた。さらに建築や庭園をはじめ、さまざまな伝統芸術について研究を続けた。
専門的に学んだのは日本画だったが、その視野は既成の様式にとどまらなかった。西洋の近代美術やデザインにも関心を持ち、線や色彩、抽象性、構成によって、どのような新しい表現が生まれるのかを考えていた。
日本画、いけばな、茶の湯には、構図、間、余白を見極める感覚が共通している。
一本の枝がどう立つか。線が視線をどこへ導くか。要素の間にどれだけ距離を置き、どこを空けておくか。それによって、作品全体の緊張感や余韻は大きく変わる。
こうした訓練を通じて、重森三玲は、庭園を植栽や園芸だけでは捉えない目を養った。
石、白砂、苔、樹木、水は、現実に存在する自然の素材であると同時に、線や形、量感やリズムを生み、思想を託す素材にもなり得る。
庭園もまた、一つの芸術作品になり得る。
この考え方は、のちの重森三玲の創作を支える重要な基礎となった。彼の庭園には、鮮明な幾何学的構成、抽象性の高い空間、強い緊張を帯びた石組がしばしば現れる。
その作品は明らかに現代的でありながら、日本庭園が長い時間をかけて築いてきた歴史に深く根を下ろしている。
しかし、芸術家としての眼差しだけでは、なぜ彼があれほど大規模な庭園史調査に取り組んだのかは説明できない。
彼をそこへ向かわせたのは、1934年の室戸台風だった。
室戸台風の後、庭園を残すことを決めた
1934年、室戸台風が京阪神を襲った。桂離宮をはじめ、京都の多くの名園で、樹木、建物、景観が大きな被害を受けた。
一枚の絵は美術館に収蔵できる。庭園は、時間と風雨にさらされ続ける。
樹木は成長し、やがて衰える。水路は変わり、建物が倒壊することもある。風災や改修はもちろん、維持管理のあり方が変わるだけでも、庭園は少しずつ姿を変えていく。
庭園の消失は、ときに突然訪れる。
数百年をかけて形成された景観が、一夜の風雨によって失われることもある。しかも当時、多くの重要な庭園には、正確な図面や記録が十分に残されていなかった。
庭園が損なわれた後では、それがもともとどのような構成だったのかさえ、分からなくなる可能性があった。
室戸台風をきっかけに、重森三玲は、古庭園がまだ姿を保っているうちに、その姿を一つ一つ記録することを決意した。
1936年から1938年にかけて、全国の古庭園を対象とする大規模な実測調査を行った。
それは、庭園を訪ねて眺め、写真を撮るだけの仕事ではなかった。
現地に入り、地形を測り、石組、樹木、水系、建物の位置を記録する。平面図や立面図を描き、写真を撮影し、細部を写生し、庭園の沿革や関連史料を調べる。
庭園を眺めることは、その全体を味わうことだ。庭園に尺を当てることは、その構成を一寸ずつ身体に刻み込むことでもある。
一つ一つの石の角度、石と石との距離、地形の起伏、水の流れる方向、そして視線が庭園の中をどのように通り抜けるのか。そのすべてを確かめなければならなかった。
今日でも、鉄道を乗り継いで一日に何か所かの庭園を巡るだけで疲れる。
重森三玲は戦前の交通事情の中で各地を訪ね、現地に着いてから、測量、作図、撮影、史料調査に取りかかった。
知識だけでなく、並外れた体力、忍耐、そして持続力を必要とする仕事だった。
わずか三年間で、約350庭園の調査記録を完成させ、その成果を全26巻の『日本庭園史図鑑』にまとめた。
そこには、膨大な実測図、写真、写生、関連史料が収められている。現在でも、日本庭園史研究の基礎資料として繰り返し参照されている。
晩年には、長男の重森完途とともに戦前の調査を見直し、再調査、整理、増補を行い、全35巻の『日本庭園史大系』を編纂した。
この二つの大著は、日本庭園史の百科全書と呼んでもよいだろう。庭園の年代、沿革、構成を整理するだけでなく、実測図、写真、写生、年表、関連史料まで保存している。
私も後に、『日本庭園史大系』の一巻を実際に手に取った。
その一巻だけでも、驚くほど厚く、重い。ページを開くと、それぞれの庭園の沿革や構成、考察が非常に詳しく記され、実測図には一本の木、一つの石、一本の水路の位置まで明確に描かれている。
それは、足で歩き、尺で測り、一本一本の線を引いてつくられた庭園史だった。
その後、多くの庭園が変化した。樹木の位置も、水系も、周辺環境も、調査当時のままとは限らない。
重森三玲の図面は研究資料であると同時に、それぞれの庭園の調査当時の姿を保存する記録にもなった。
しかし、この三年間の実測が彼にもたらしたものは、膨大な記録だけではなかった。
研究を深めるほど、模倣から遠ざかった
庭園を眺めれば、まず全体の印象が記憶に残る。
実測では、さらに問い続けなければならない。
なぜこの石はここに立っているのか。なぜこの方向を向いているのか。隣の石とどのように呼応しているのか。水はなぜここを通り、人はなぜある場所で足を止めるのか。
重森三玲が測っていたのは、距離や地形、位置だった。しかし本当に研究していたのは、構図だった。
彼は長年にわたって石組を観察し、やがてそれを日本庭園の骨格として捉えるようになった。
一つの石がどの角度で立つか。石の正面をどこへ向けるか。どれほど深く地中に埋めるか。隣の石との間にどの程度の距離を残すか。
そのわずかな違いが、庭園全体の力を変える。
昂然と立つ石もあれば、前へ傾く石もある。地に深く沈む石もある。
山岳、島、滝を表す石もあれば、何か具体的なものを象徴するのではなく、重さ、方向、姿だけで画面をつくる石もある。
樹木は年月とともに変化する。石組は庭園の骨格を定め、空間のリズムをつくり、見る人の視線を導く。
重森三玲は著作の中で、石組を日本庭園の真髄として明確に位置づけている。
作庭者はまず、一つの石が最も美しく見える姿を見極めなければならない。そして作庭者と石の呼吸が合ったとき、初めてその石を据えることができると考えていた。
一つ一つの庭園を実測するうちに、彼が見いだしたのは、先人の卓越した技法だけではなかった。
偉大な古庭園は、どれも既成の公式をなぞったものではなかった。
もちろん、それぞれの庭園は、それ以前の宗教思想や空間観念、作庭の語彙を受け継いでいる。しかし、そこで模倣にとどまってはいなかった。
各時代の優れた作庭家は、その時代の文化、技術、敷地条件に応じて、石、水、植物、建築の関係を新しく組み直していた。
今では古典と見なされている庭園の多くも、完成した当時は新しいものだった。
研究を深めるほど、重森三玲にとって、伝統に忠実であることと、過去の形式を再現することは、もはや同じことではなくなった。
古庭園の外形をそのままもう一度つくることが、必ずしも伝統への敬意になるとは限らない。
それらの作品から本当に継承すべきものは、それぞれの時代に新しい形式を生み出した力だった。
彼は研究を深めるほど、模倣から遠ざかった。日本庭園史を動かした作品は、どれも先人の答えにとどまってはいなかったからだ。
その知識は、彼を保守的にするのではなく、彼に判断の自由を与えた。
どの形式がどの時代から生まれ、どの石組がどのような宗教観念を背負い、どの構成ならなお組み替えられるのか。
彼はそれを知っていた。
伝統を書き換えるには、資格がいる。
重森三玲は、一つ一つの庭園に尺を当てながら、その資格を得ていった。
庭園のもう一つの消失
室戸台風は、庭園が風雨と時間によって失われることを重森三玲に示した。
大規模な実測調査は、もう一つの、より静かな消失を彼に見せた。
時代が下るにつれ、既存の形式をなぞる庭園が増えていった。先人が残した石組、地割、枯山水、象徴的な語彙は、繰り返し使うことのできる手法として整理されていった。
技術は精緻で、庭園も美しい。
それでも創造の力は、同じ答えを繰り返すうちに、少しずつ弱まっていくことがある。
外形が残っていても、かつて見る者に迫った力は、すでに失われているかもしれない。
台風が壊すのは、庭園の形である。
模倣がすり減らすのは、伝統が新しいものを生み出す力である。
重森三玲が古庭園を研究するほど、復古を望まなくなった理由も、そこにあった。
彼は歴史を守ろうとした。しかし日本庭園を、過去だけを振り返る芸術にはしたくなかった。
「永遠のモダン」
重森三玲は、自らが求める美を「永遠のモダン」と表現した。
ここでいうモダンは、一時的な流行ではない。
時代を超えて力を失わず、しかも特定の時代の様式に閉じ込められない創造性を意味している。
優れた古典庭園は、もともと自然を再構成し、単純化し、抽象化する方法を知っていた。
庭園は、山川をそのまま複製する必要はない。
作庭家は石、砂、水、植物を使い、現実の自然には存在しない秩序をつくることができる。
石は石のままであり、白砂も白砂のままである。それでも組み合わせ方によって、海、島、星座、戦陣、さらには完全に抽象的な構成にもなり得る。
重森三玲が目指したのは、日本庭園を西洋風に見せることではなかった。単に伝統と異なるものをつくり、新奇さを競おうとしたのでもない。
彼が取り戻そうとしたのは、伝統の内部にもともとあった創造力だった。
伝統は、本来、変化を止めたことがない。
各時代の創作者は、その時代の敷地条件や暮らし、ものの見方に向き合い、そのたびに自らの答えを提出してきた。
「永遠のモダン」とは、固定された造形ではない。
創造を続ける姿勢だった。
歴史に根差した革新
私は以前から日本庭園が好きだ。
それでも、日本庭園の専門家と仕事をご一緒すると、その眼力に驚かされることがある。
一枚の写真を見ただけで、誰の作品か、あるいはどの時代の手法か、おおよその見当をつけてしまう。
石組の姿、地割の方法、飛石の置き方、植栽の扱いには、筆跡のように、作者と時代の痕跡が残っている。
だからこそ、庭園史研究者の尼﨑博正氏が『Core Kyoto』で重森三玲について語った際、その研究基盤を強調していた理由もよく分かる。
私が受け取った趣旨は、重森三玲は非常に多くの古庭園を研究し、確かな基礎を持っていたからこそ、その革新が成立した、というものだった。
ただ違う形をつくるだけなら、それほど難しくない。
本当に難しいのは、その違いを歴史と結び直し、その時、その場所でなければ生まれなかったと思わせる作品にすることだ。
重森三玲は、自分が何を受け継ぎ、何を変えようとしているのかを理解していた。
彼の庭園は大胆に見える。しかし、単なる思いつきから生まれたものはほとんどない。
一つ一つの革新の背後には、彼自身が歩き、測り、描いた数百の庭園がある。
研究によって得た自由が、最初に明確な形となって現れたのが東福寺だった。
東福寺|制約が生んだ創造
1939年、43歳の重森三玲は、京都の東福寺本坊庭園を完成させた。
全国の古庭園の実測を終え、『日本庭園史図鑑』を刊行した直後に手がけた、最初の本格的な大作である。
彼は日本庭園史に蓄積されたさまざまな答えを見たばかりだった。そして東福寺で、自らの答えを提出した。
寺側から示された条件は明確だった。
本坊にすでにある材料を捨てず、すべて再利用すること。
そこには、何一つ無駄にしないという禅の姿勢があった。現場にある石は、新しい庭をつくるからといって、ただ不要なものとして退けることはできない。
この制約が、作品の重要な出発点となった。
東司の修理で残った七本の円柱形礎石は、東庭で北斗七星として配置された。寺内の道に敷かれていた方形の切石は、北庭の市松を形づくった。
これらの石材には、明らかに人工的な形が残っている。
円柱を自然石のように見せることはできない。方形の切石も、まっすぐな縁を隠すことはできない。
重森三玲は、その人工性を隠さなかった。
円柱は円柱のまま、方形の石は方形のまま、新しい秩序の中に置いた。素材に残る人工性が、かえって庭園の最も現代的な部分となった。
重森家に残る初期案には、後に有名になる市松がまだ描かれていない。
既存の材料をすべて再利用するという寺側の条件があったからこそ、今日知られる市松が生まれた。
彼は古い石を一つも捨てず、それまでにない庭園をつくった。
制約は、重森三玲の創造を狭めなかった。
むしろ、避けることのできない問いを与えた。
東福寺の現代性は、歴史をいったん消し去り、自由に材料を選ぶことから生まれたのではない。
寺院の歴史、ものを無駄にしない禅の姿勢、そして現場にすでにあったものから生まれた。
東福寺では、材料が問いを投げかけた。
岸和田城では、その問いは見る位置へと移る。
岸和田城|見るという行為まで設計した
1953年、重森三玲は大阪の岸和田城に「八陣の庭」をつくった。
庭園の主題は、諸葛孔明の八陣法である。
中央に「大将」を表す石組を置き、その周囲に八つの陣を配置した。石組は高さの異なる三段の基壇に置かれ、四方へ広がる構成となっている。
地上からは、それぞれの石組をあらゆる方向から見ることができる。
地上で目に入るのは、方向性、重量感、緊張を帯びた石組である。見る者が庭園の周囲を歩くたびに、石と石との関係も変わる。
ところが岸和田城の天守へ上がると、庭園は別の姿を現す。
上から見下ろすと、地上では分散して見えた石組が、一つの八陣図を形成する。個別に感じていた石の群れが、中心、方向、全体の秩序を持つ平面構成になる。
重森三玲はこの庭園を設計する際、天守からの俯瞰だけでなく、上空から見下ろす視点まで意識していた。
伝統的な日本庭園の多くは、建物の縁側や園路に立つ人の水平な視線を扱ってきた。
八陣の庭は、そこへ垂直方向の視点を加えた。
同じ庭園が、地上からは石の力として見え、高所からは一つの戦陣として見える。
庭園そのものは変わらない。
見る位置が変わると、作品の意味が変わる。
重森三玲が設計したのは庭園だけではない。人がその庭をどのように見るかまで、設計の対象だった。
そして晩年の漢陽寺で、彼が向き合ったのは、さらに大きな問いだった。
日本庭園の歴史そのものである。
漢陽寺|庭園史家と作庭家が、同じ場所に立つ
私は、重森三玲が晩年に山口県の漢陽寺で手がけた庭園群がとても好きだ。
漢陽寺には、重森三玲が設計・指導した複数の庭園がある。
水の流れを中心とする「曲水の庭」、枯山水による「地蔵遊化の庭」、石組と池泉からなる「九山八海の庭」などである。
彼は寺の背後にある潮音洞から引かれた水を生かし、流水、池泉、枯山水を一つの寺院の中に配置した。
作庭は前後八年に及び、漢陽寺は、日本庭園が歴史の中で育ててきた複数の語彙を、同じ場所で見ることのできる数少ない寺院となった。
漢陽寺は東福寺ほど広く知られてはいない。
それでも、そこには一つの完成された世界が広がっている。
水が石の間を通り、樹木と遠山がその背後に重なっていく。それぞれの部分が一つの景として成立しながら、水路、地形、視線によって全体につながっている。
ある角度から見ると、仙境を思わせるほど美しい。
しかし、それは手つかずの自然ではない。
石の位置、水路の曲がり方、樹木がつくる奥行き、遠山が画面に現れる割合まで、作庭家によって選ばれ、組み立てられている。
自然の素材は、歩いて中へ入ることのできる一幅の山水画へと組み上げられている。
漢陽寺が特別なのは、美しさだけではない。
かつて全国を歩き、さまざまな時代の古庭園を一つ一つ実測した人が、晩年になって、曲水、池泉、枯山水、石組という歴史的な語彙を、同じ寺院の中で自ら扱った。
異なる時代の形式を、庭園史の博物館のように並べたのではない。
どこか一つの時代を選び、その姿を復元したのでもない。
彼が研究してきた形式が、ここで再び創作の素材になった。
尺で歴史を記録した人が、石、水、地形を使って、その歴史の続きを書き始めた。
漢陽寺では、重森三玲を「研究者」と「作庭家」に分けることは、もはやできない。
古庭園を実測するとき、彼はすでに作庭家の目で構図、距離、石と石との関係を見ていた。
新しい庭園をつくるときも、研究者として同じ問いを続けていた。
これらの形式は、なぜ成立したのか。
数百年を経た今、そこから何を新しく生み出せるのか。
重森三玲にとって、実測はすでに設計の思考であり、設計もまた、日本庭園は今なお何を生み出せるのかを問う研究だった。
漢陽寺で、歴史を振り返る目と未来をつくる手は、ついに同じ仕事をしていた。
日本庭園の歴史を、その先へ
重森三玲を理解するにつれ、私自身、重森千靑さんの作品を見る目も変わった。
この家族に受け継がれているのは、特定の市松模様でも、繰り返し使うことのできる石組の形式でもない。
日本庭園を、今なお創作し得る芸術として捉える姿勢である。
庭園には、二つの失われ方がある。
重森三玲は、それぞれに異なる道具で向き合った。
一つの消失には、尺を当てた。
台風、歳月、改修によって失われるかもしれない庭園を、一寸ずつ記録した。
もう一つの消失には、石を据えた。
外形だけが残り、創造力が模倣の中ですり減っていくとき、それまでにない庭園をつくった。
研究は、彼を過去の番人にはしなかった。
むしろ、庭園の外形だけでなく、伝統が新しいものを生み出し続ける力も残すべきだと、彼に教えた。
彼は日本庭園を、過去の中に閉じ込めなかった。
日本庭園の歴史を、その先へ進めた。
参考資料・関連資料
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重森三玲の生涯、芸術的背景、古庭園実測、作庭思想。
重森三玲をもっと知る -
室戸台風、1936年から1938年の古庭園実測、『日本庭園史図鑑』全26巻、約350庭園の記録。
奈良文化財研究所|庭園の記録 -
『日本庭園史大系』全35巻の内容、実測図、年表、索引。
京都府立図書館|『日本庭園史大系』 -
「日本庭園の真髄は石組にある」という見方を含む、重森三玲の作庭思想と石組観。
福井大学学術機関リポジトリ|重森三玲の作庭思想に関する研究 -
東福寺本坊庭園の沿革、既存材料の再利用、東庭の北斗七星、北庭の市松、初期設計資料。
臨済宗大本山東福寺|本坊庭園 -
岸和田城「八陣の庭」の作庭年代、八陣法による構成、地上・天守・上空からの視点。
岸和田市|岸和田城庭園「八陣の庭」 -
漢陽寺の各庭園、潮音洞の水源、八年間にわたる作庭、複数の歴史的庭園形式。
鹿苑山漢陽寺|境内・庭園 -
尼﨑博正氏らの証言と「永遠のモダン」を扱う、重森三玲の特集番組資料。
Core Kyoto|作庭家・重森三玲 -
「永遠のモダン」、石組、前衛性、重森三玲の作庭芸術についての関連資料。
京都通信社|京の庭の巨匠たち・重森三玲
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