Tang‑Yu Life|台湾・高雄から

歴史・文化・日台交流

「太平洋の橋」から烏山頭へ

八田與一の仕事が、金沢と台南を結ぶまで。1930年に完成した一つの水利事業が、なぜ約一世紀後の今も、金沢と台南を行き来する理由になっているのか。

新渡戸稲造は、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」と語った。日本と西洋のあいだに立ち、互いの理解を深める橋になりたいという願いだった。1

八田與一は、新渡戸のような言葉を残していない。金沢から台湾へ渡り、手がけたのは、烏山頭ダムと、嘉南平原に水を送る大規模な灌漑網・嘉南大圳だった。

けれども、その仕事は1930年に完成したあと、水利史の中だけにとどまらなかった。

銅像の保存、毎年の追悼、宿舎の修復、工芸交流、そして都市どうしの往来が重なり、金沢と台南は、いまもこの仕事を通して出会い続けている。

新渡戸の橋は、彼が先に言葉にした志だった。烏山頭のもう一つの橋は、八田が去ったあと、後の人びとが少しずつ歩いてきたものだった。

烏山頭ダムと、八田與一の仕事を起点に続く台南・金沢の交流
「太平洋の橋」から烏山頭へ
八田與一の仕事が、金沢と台南を結ぶまで
烏山頭ダムの仕事は、後の人びとの往来によって、金沢と台南を結ぶ縁になっていった。
本文の流れ
  1. 1930年の先に残ったもの
  2. 一体の銅像が、半世紀を越える
  3. 一つの日付が、往来を生む
  4. 修復が、記憶を暮らしの尺度へ戻す
  5. 橋を渡る人が増えていく
  6. 十五年の往来が、正式な形になる
  7. 橋は、あとから見えてくる

1930年の先に残ったもの

私は烏山頭ダムを何度も訪れ、遊覧船で岸を離れ、水面が目の前に広がっていくのを眺めたこともある。

建築に携わる者として、まず目を奪われるのは、そのスケールである。

建築には、どれほど大きくても敷地の輪郭がある。水利事業が向き合うのは、山、水路、農地、そして平原全体だ。

嘉南大圳は1920年に着工し、十年をかけて1930年に完成した。その規模や技術、農業への影響については、すでに多くの研究や記事がある。2

この文章の起点は、完成した1930年である。

工事が終わり、現場にいた人たちが次第に去ったあと、ダムや水路のほかに何が残ったのか。八田の故郷・金沢は、なぜ数十年を経て再び烏山頭と結ばれたのか。

最初の答えは、一体の銅像にある。

一体の銅像が、半世紀を越える

嘉南大圳の竣工後、工事関係者は「交友会」を結成し、十年にわたってともに働いた八田の銅像をつくることを提案した。

制作を手がけたのは、金沢の彫刻家・都賀田勇馬である。像は1931年に台湾へ運ばれ、烏山頭ダムのそばに設置された。

後世の顕彰事業として建てられた像ではない。工事の記憶がまだ鮮明な時期に、現場をともにした人たちが残そうとした像だった。3

1944年、戦時下の金属不足が深まるなか、銅像は烏山頭から姿を消した。

戦後、水利関係者が番子田駅、現在の隆田駅の倉庫で像を見つけ、水利会が買い取った。像は八田がかつて住んだ宿舎に保管された。

1975年と1978年にも元の場所へ戻す動きがあったが、実現しなかった。1981年になって、ようやく烏山頭へ戻された。3

1931年の建立から1981年の再設置まで、半世紀が過ぎている。

像をつくった世代と、戦後に見つけ、守り、元の場所へ戻した世代は同じではない。誰か一人が、半世紀にわたって守り通したのでもなかった。

見つけた人、保管した人、戻す時機を待った人がいた。それぞれが自分の時代に一つの役割を果たしたからこそ、銅像は戦争と社会の変化を越え、再び元の場所に立つことができた。

銅像に残ったのは、八田の姿だけではない。ともに働いた十年を、後の世代がどのように受け止め、残そうとしたのかも刻まれている。

半世紀後、銅像を元の場所へ戻したのは、金属の強さではなく、時代ごとに受け継がれた「残そう」という意思だった。

一つの日付が、往来を生む

八田與一は、1942年5月8日に亡くなった。

1984年以降、嘉南農田水利会は毎年5月8日、烏山頭ダムの銅像と墓前で追悼行事を行ってきた。4

追悼は本来、過去を振り返るためのものだ。しかし、それが毎年同じ日に続けば、今を生きる人たちを再び同じ場所へ集めることにもなる。

日本から烏山頭を訪れる人がいて、台湾で迎える人がいる。前年に会った人と、翌年また同じ日、同じ場所で顔を合わせる。

年に一度の再会が積み重なり、往来は少しずつ定着していった。

金沢市は2011年から八田與一の追悼行事に参加するようになった。コロナ禍の時期を除き、関係者はほぼ毎年台南を訪れ、交流は観光、市議会、民間団体へと広がっていった。5

追悼は、一人を偲ぶ場であると同時に、二つの都市が毎年顔を合わせる場になった。

修復が、記憶を暮らしの尺度へ戻す

金沢市が追悼行事に参加する少し前から、烏山頭では別の仕事も進んでいた。

2009年、シラヤ国家風景区管理処は、八田與一の旧宿舎群の修復を計画した。

設計を担当したチームは金沢へ赴き、現地の木造建築技術を調査した。八田邸を含む四棟の日本式宿舎は、日本の大工技術を取り入れて修復され、室内には金沢市民から寄贈された古い家具が置かれた。

八田與一記念園区は、2011年5月8日に開園した。6

家を修復するには、保存したいという思いだけでは足りない。

木組みをどう継ぐか。もとの空間をどう読み取り、どの時代の家具を置くか。暮らしのどんな痕跡を残すか。そうしたことを、一つずつ確かめていく必要がある。

台湾の設計者は金沢へ手がかりを探しに行き、金沢市民は自分たちの暮らしの中から、烏山頭へ送る家具を選んだ。

記憶は、碑文や写真、年に一度の儀式の中だけにとどまらなくなった。木材の寸法や家具の手触りを伴い、人が実際に入ることのできる空間へ戻ってきた。

一人の人物を記憶するために生まれた縁が、ここでは一つの場所を残すための仕事になった。

橋を渡る人が増えていく

宿舎群の修復後も、台南と金沢の往来は烏山頭だけにとどまらなかった。

2021年、台南市美術館で「工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展」が開かれた。

八田與一と嘉南大圳着工百年を背景に、金沢卯辰山工芸工房と台湾の工芸家が、金工、陶芸、漆芸、ガラス、染織の作品を通して交流した。7

この頃には、両地を行き交うものは、八田の物語だけではなくなっていた。

金沢の工芸家は、自分たちの素材、技法、作品を持ってきた。台湾の工芸家も、自らの制作でそれに応えた。

出会いのきっかけは八田與一だった。しかし、実際に向き合ったのは、互いが今つくっているものだった。

2024年には台南と金沢の双城フォーラムが開かれ、金沢のキュレーター、工芸家、研究者と、台湾の文化関係者が意見を交わした。

2025年には、金沢21世紀美術館の元館長・秋元雄史が台南で展覧会を企画した。両地の交流は、工芸からデザイン、現代美術へと広がっていった。7

同じ2025年、金沢市立工業高等学校は初めて台湾への修学旅行を行い、生徒たちは烏山頭を訪れた。金沢出身の一人の技師が台湾に何を残したのかを、自分たちの目で見る旅だった。5

八田に会ったことのない高校生まで海を渡ったとき、この縁は直接の記憶を離れ、次の世代へ渡り始めていた。

追悼から始まった往来は、工芸家やキュレーター、学生たちが、それぞれの仕事や関心を携えて出会う場へと変わっていった。

八田は今も出発点である。けれども、交流の中身は、工芸、現代美術、教育へと広がっている。

十五年の往来が、正式な形になる

2026年5月7日、台南市と金沢市は「観光文化交流促進に関する合意書」を締結し、金沢市は台南市にとって63番目の国際提携都市となった。

翌8日、金沢の訪問団は烏山頭へ向かい、八田與一没後84年の追悼行事に参加した。5

合意書への署名は、一日で終わる。しかし、そこへ至る往来は、少なくとも十五年にわたって積み重ねられてきた。

合意書が二つの都市の関係をつくったのではない。それまで続いてきた来訪、追悼、修復、文化交流が、この日、一つの正式な形を得たのである。

署名の前から、来訪、追悼、修復、展覧会、教育交流は、すでに何年も積み重ねられていた。

最初のきっかけは、一人の技師だった。そこから先を育てたのは、彼を直接知らない世代である。

橋は、あとから見えてくる

一つの水利事業は、完成しただけで台湾と日本の橋になったわけではない。

橋の形を与えたのは、失われた銅像を見つけ、追悼の日に戻り、宿舎を修復し、家具や作品、生徒を送り出した人たちだった。

八田の仕事は、人が記憶し、そこへ戻り、再び出会うための起点になった。二つの土地を結んだのは、その後に重ねられた一つ一つの選択である。

新渡戸稲造は若い頃、自分がなりたい橋を言葉にした。

八田與一は、この橋に名をつけなかった。彼が残したのは、烏山頭ダムと嘉南大圳である。

後の人たちはそれを守り、そこへ戻り、その縁をたどって互いの町へ向かった。

はじめから名を持つ橋もある。人が行き交い、歳月が重なったあとで、初めて何と何を結んでいたのかが見えてくる橋もある。

補足:烏山頭ダム、八田與一、台南と金沢

日本の読者が本文を読み進めるときに、先に知っておくと理解しやすい背景をまとめたものです。

背景を知る

八田與一とは誰ですか。

八田與一は、石川県金沢出身の土木技師で、台湾では烏山頭ダムと嘉南大圳の建設に深く関わった人物として知られている。嘉南大圳は1920年に着工し、1930年に完成した大規模な灌漑事業で、烏山頭ダムはその中心的な施設の一つだった。2

烏山頭ダムはどこにありますか。

烏山頭ダムは、台湾南部の台南市官田区にある。湖岸線が入り組み、上空から見るとサンゴに似ていることから、「珊瑚潭」とも呼ばれている。8

烏山頭ダムはなぜ重要なのですか。

烏山頭ダムは、嘉南大圳の主要施設の一つである。嘉南大圳は烏山頭ダム、取水口、幹線、支線、排水・防潮設備などからなる大きな灌漑網で、嘉南平原の農業環境を大きく変えた。農田水利署の近年資料でも、烏山頭ダムと嘉南大圳が約15万ヘクタールの土地を良田に変えたと説明されている。2

嘉南大圳とは何ですか。

嘉南大圳は、台湾南部の嘉南平原に水を送るためにつくられた大規模な灌漑システムである。ダムだけでなく、水を引き入れる施設、幹線水路、支線、排水、防潮設備などを組み合わせ、広い農地へ水を配る仕組みとして整備された。2

烏山頭ダムと嘉南大圳は、どう関係していますか。

烏山頭ダムは、嘉南大圳の中で水を貯め、調整する中心的な施設の一つである。嘉南大圳は、その水を嘉南平原の農地へ送るための大きな水路網で、両者は切り離して考えるより、一つの水利システムとして見るほうが分かりやすい。

新渡戸稲造とは誰ですか。なぜ本文の冒頭で触れているのですか。

新渡戸稲造は、近代日本の教育者、農学者、国際人であり、『武士道』の著者としても知られている。国際連盟事務次長を務めた人物でもあり、「太平洋の橋」として日本と西洋の相互理解に尽くしたいという志で知られる。本文では、この言葉を、八田與一が後に烏山頭を通して生んだもう一つのつながりと対照させている。1

八田與一の銅像は、どのような像ですか。

烏山頭ダムの八田與一銅像は、一般的な立像の偉人像ではない。作業服姿で堤に腰を下ろし、考え込むような姿をしている。高い台座の上から人を見下ろす記念碑というより、今も水庫や堤防のそばで現場を見つめているような像である。3

八田與一記念園区と旧宿舎群とは何ですか。

八田與一記念園区は、烏山頭ダムの旧宿舎群を修復して整備された場所である。修復の際には、設計者が金沢へ赴いて建築工法を調べ、日本の木造建築技術を取り入れた。室内には、金沢市民から寄贈された古い家具も置かれている。6

烏山頭ダムへはどう行けますか。

公共交通機関を使う場合は、台湾鉄道の新営駅、林鳳営駅、隆田駅、善化駅などからバスに乗り換える方法がある。交通部観光署の日本語ページでは、新営駅から台湾好行・菱波官田線で「烏山頭ダム」バス停へ向かうルートなどが紹介されている。実際の運行日は変わることがあるため、出発前に最新の時刻表を確認したほうがよい。8

台湾では、八田與一はどのように記憶されていますか。

台湾では、八田與一は烏山頭ダムと嘉南大圳を通して記憶されることが多い。水利技術や嘉南平原の農業だけでなく、烏山頭で続く追悼行事、記念園区、そして台南と金沢の交流も、その記憶の一部になっている。45

台南と金沢の交流を知る

台南と金沢の交流は、いつから続いているのですか。

台南市政府の資料では、金沢市と台南市の交流は、2011年に金沢市が初めて八田與一の追悼行事に参加したことから始まったと説明されている。その後、観光、議会、民間団体、若い世代の交流へと広がっていった。5

「工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展」とは何ですか。

2021年に台南市美術館で開かれた、台湾と金沢の工芸交流展である。八田與一、烏山頭ダム、嘉南大圳着工百年を背景に、金沢卯辰山工芸工房と台湾の工芸家による金工、陶芸、漆芸、ガラス、染織などの作品を紹介した。7

「台南×金沢双城フォーラム」とは何ですか。

2024年に台南市美術館で開かれた、台南と金沢の工芸・芸術交流フォーラムである。秋元雄史、唐澤昌宏、大樋長左衛門、山村慎哉、川本敦久ら日本側の工芸・美術関係者と、台湾側の学者、工芸家、文化関係者が参加し、伝統工芸の現代的な転換、工芸教育、工芸の継承と革新について話し合った。7

秋元雄史が企画した「皮膚と内臓:自己、世界、時間」とは何ですか。

「皮膚と内臓:自己、世界、時間」は、2025年10月3日から2026年1月18日まで台南市美術館で開かれた展覧会である。秋元雄史がキュレーターを務め、日本の女性アーティスト十人を紹介し、皮膚と内臓の感覚を出発点に、自我、世界、時間を考える内容だった。7

2026年の「観光文化交流促進に関する合意書」とは何ですか。

2026年5月7日、台南市と石川県金沢市が締結した観光・文化交流に関する合意書である。金沢市は台南市にとって63番目の国際提携都市となり、翌日の5月8日には金沢の訪問団が烏山頭で八田與一の追悼行事に参加した。5

参考資料

  1. UBC Botanical Garden は、新渡戸稲造が生涯を通して「太平洋の橋」となることを願っていたこと、新渡戸記念庭園が日本と西洋の相互理解を促すその志を受け継ぐ場所であることを紹介している。国立国会図書館の人物資料は、新渡戸の教育者・国際人としての経歴と『Bushido: The Soul of Japan』について整理している。
    UBC Botanical Garden|Nitobe Memorial GardenNational Diet Library|NITOBE Inazo
  2. 台湾の経済部水利署と農業部農田水利署の資料は、嘉南大圳が1920年に着工し、1930年に完成したこと、烏山頭ダムが嘉南大圳の重要な施設であること、同事業が嘉南平原の農業に大きな影響を与えたことを説明している。
    台湾経済部水利署|八田與一、嘉南大圳、烏山頭ダム農業部農田水利署|八田與一技師逝世84週年追思紀念会
  3. シラヤ国家風景区管理処と八田與一文化芸術基金会の資料は、銅像が嘉南大圳の工事関係者の提案で制作され、1931年に台湾へ運ばれたこと、その後、戦時中の消失、戦後の発見と保管を経て、1981年に元の場所へ再設置された経緯を記している。
    シラヤ国家風景区管理処|八田與一記念園区八田與一文化芸術基金会|八田與一関連資料
  4. 台湾経済部水利署の資料によると、嘉南農田水利会は1984年以降、毎年5月8日に烏山頭ダムで八田與一の追悼行事を行ってきた。
    台湾経済部水利署|八田與一没後70年追悼行事
  5. 台南市政府の資料は、金沢市が2011年から八田與一の追悼行事に参加し、交流が観光、市議会、民間団体、若い世代へ広がったこと、2025年に金沢市立工業高等学校が初めて台湾へ修学旅行を行ったこと、2026年5月7日に両市が「観光文化交流促進に関する合意書」を締結したことを伝えている。
    台南市政府|台南市、金沢市と合意書締結台南市政府|台南市與日本金澤市簽訂合意書
  6. 台湾交通部観光署の日本語資料は、八田與一記念園区の修復にあたり、設計会社が金沢へ赴いて建築工法を調査したこと、日本の建築技術を取り入れたこと、金沢市民から寄贈された古い家具を配置したことを紹介している。
    台湾交通部観光署|八田與一記念園区
  7. 台南市美術館は、2021年の「工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展」、2024年の「台南×金沢双城フォーラム」、2025年から2026年にかけての秋元雄史企画展「皮膚と内臓:自己、世界、時間」を、それぞれ公式ページで紹介している。
    台南市美術館|工芸協奏曲―台湾×金沢工芸交流展台南市美術館|台南×金沢双城フォーラム台南市美術館|皮膚と内臓:自己、世界、時間
  8. 台湾交通部観光署の日本語資料は、烏山頭ダム風景区の所在地、開放時間、公共交通機関によるアクセス方法を紹介している。
    台湾交通部観光署|烏山頭ダム風景区

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